ころたんの日常 自分と世界を分ける線について

日常の出来事

こんにちは!

お久しぶりのころたんです(^_^)/
いやぁ大地君に任せっきりになってしまっていたと反省してます💦

大地君いつもありがとう!!

さて、先日、ある友人と話していたときのことです。
「それって、本当に自分の考えなのかな? 誰かの考えを、自分のものだと勘違いしているのかもしれないって思うことがあるんだ」
そんなふうに語られた言葉が、なぜかずっと心に残っていました。

その感覚は、私にもなんとなく思い当たるところがありました。
自分と他人の境界が曖昧に感じられていた頃、自分の感情と相手の感情の区別がつかなくなったことがあったのです。
相手の気持ちが“わかってしまう”ような気がして、それをそのまま自分の中に取り込んでしまったり。
世の中の空気が、まるで自分に向けられているように感じたり。
そうした感覚に、知らず知らずのうちに心が疲れていったことを覚えています。

今になって思うのは、あのときの私は、自分と他人、自分と世界のあいだにあるはずの“境界線”を、うまく引けていなかったのだということです。

友人の話を聞きながら、私は「じゃあ、その“誰の考えなのか”って、誰にわかるんだろう?」と問いかけてみました。
すると彼は少し笑いながら、「神様かな」と答えました。
冗談のようでもあり、本音のようでもありました。

私はそのとき、自分の中でもう一度思い出していたのです。
「私には知るよしのないことを、知るよしのないこととして受け入れる」ようになったときに、心がふっと軽くなったことを。

それは、何かをあきらめたというよりも、「全部わかろうとしない」という余白をもつことでした。
世界のすべてを、自分の考えで説明しようとしなくてもいい。
どうにも確かめようのないことを、わからないままで置いておく。
そんなふうに思えるようになったことで、私は少しずつ楽になっていったのです。

その“余白”こそが、私にとっての「境界線」だったのかもしれません。

きっとこの境界線は、統合失調症のあるなしに関係なく、誰の中にもあるものだと思います。
ただ、揺らいだときにどんな違和感があるか、どんなふうに戻ってこれるかは、人それぞれなのかもしれません。

あの対話は、今も私の中で静かに続いています。
何が本当だったのか、何を信じていいのか、完全にはわからないままです。
でも、「わからないままでいてもいい」と思えることが、私にとってはひとつの救いでした。

あなたにとって、自分と世界のあいだにある“境界線”は、どんな形をしていますか?

今日はゆっくりまったり過ごしていきます‼(/・ω・)/

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