こんにちは、ころたんです(^_^)/
前回の記事では、統合失調症の回復の過程で、焦りから自分を測りすぎてしまい、かえって不安に陥ってしまった経験をお話ししました。今回は、その続きとして、評価の「ものさし(尺度)」の柔軟性について、先日大地君と話した「当たり前」というテーマとも関連させながら、もう少し肩の力を抜いた感じで考えてみたいと思います。
「当たり前」って、どういうことでしょう?
先日、大地君と「当たり前」について話しました。大地君は、「当たり前のことを当たり前にできるって、実はすごいことなのではないか」と言っていて、私も深く考えさせられました。
私にとっての「当たり前」は、例えば、毎日きちんと薬を飲むことや、体調が優れない時でも少しは作業してみることです。しかし、それが難しい日もあります。そんな時、「周りの人は普通にできているのに…」と感じて、気持ちが沈んでしまうことがあります。
でも、よく考えると、「周りの人」という基準は、一体どこから来ているのでしょうか? きっと、人それぞれに得意なことや苦手なことがあり、頑張っていることも違うはずなのに、私たちは漠然とした「当たり前」に縛られているのかもしれません。
大地君との会話から
大地君は、例えば「時間に遅れないのは当たり前だけど、それを長年続けるのは本当にすごいことだ」と話してくれました。確かに、私も毎日決まった時間に起きるだけでも、精一杯頑張っていると感じることがあります。
また、大地君は「『当たり前』を人に強要するのは違うと思う」とも言っていました。電車の遅延や体調不良など、様々な理由で「当たり前」ができない時があるのに、「それが当然でしょう」と決めつけるのは、相手を苦しめてしまうかもしれません。私たちも、頑張りたくてもどうしてもできない時があるのですから。
自分だけの「ものさし」を見つけるということ
回復していく中で、私が大切だと気づいたのは、他人と比較する「ものさし」ではなく、自分だけの「ものさし」を持つことです。
昨日できなかったことが、今日は少しできた。以前はすぐに諦めていたけれど、今日はもう少し粘れた。そういった小さな進歩を、自分自身の「ものさし」で丁寧に測り、「頑張っているね」と自分を認めてあげることが大切なのではないでしょうか。
それぞれの「当たり前」がある
先日、大地君と話していて印象的だったのは、「自分が当たり前だと思っていることが、他の人から見たらすごいことだったりする」という発見です。例えば、私が毎日ブログを書いたり、興味のあることに挑戦したりすることは、自分にとっては日常的なことでも、他の人からすると感心されることもあるようです。
「健常な方にとっての当たり前」「私たちのような病気を持つ者にとっての当たり前」「頑張り屋さんのあの人にとっての当たり前」のように、立場や経験によって「当たり前」の基準は異なります。その違いを理解することが、自分自身と他者をより深く理解することに繋がるのだと感じました。
自分を信じるための測り方
ですから、これからは、社会の「当たり前」という基準に捉われすぎず、自分だけの「ものさし」で、自分のペースでゆっくりと進んでいきたいと思っています。
昨日よりも少しでも体調が良くなったら、それは小さな進歩です。たとえ歩みがゆっくりでも、確かに前に進んでいるのだと信じたいです。
様々な「ものさし」があって良いのだと思います。自分だけの応援歌を心の中で歌いながら、今日も焦らず、薬を忘れずに、のんびりと過ごしていこうと思います(/・ω・)/
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