ころたんの日常 大地&ころたんの心の広場について

日常の出来事

排除された記憶から、包摂の場をつくるということ

「あなたの言葉は、ここではちょっと…」
「その思いは伝わってきたけれど、この場ではちょっと難しいかもしれないね」
そんな言葉に出会ったことがあります。

きっと悪気があったわけではなくて、場の安全や、他の人の心を守るためだったのだと思います。
でも、そのときの私は、「場から押し出された」と感じてしまいました。

何かに触れてほしくない気持ちや、守りたい秩序があるのは当然のこと。
それを否定するつもりはありません。
それでも、「あなたはここにいていい」という言葉がほしかった。

心の当事者としての痛み

私たちは、日々のやりとりの中で、
心の奥がひそかに排除されたように感じる瞬間を、知らず知らずのうちに経験しています。

・意見を言った瞬間、空気がぴんと張りつめる。

・誰かが語ろうとした経験が、「ここで話すのは適切でない」と受け止められてしまう。

・「わかってほしい」思いが、沈黙で返される。

心の痛みは、特別な誰かだけのものではありません。
だから私は思うのです。
「誰もが、心の当事者なのだ」と。

「心の広場」は、そんな当事者たちの場所でありたい

私たちがつくりたい「心の広場」は、
傷を隠すのでも、共感だけでつながるのでもなく、
心の当事者たちが、それぞれの立場で包み、包まれるような関係性を育んでいく場です。

今日、誰かを支える人が、
明日には誰かに支えられる。
そんなふうに、包摂がぐるぐると回っていく。

それはきっと、「優しさ」や「配慮」だけでは届かない、
存在そのものを認め合う関係性のなかで、少しずつ生まれていくのだと思います。

包摂とは、向き合い方のかたち

包摂とは「誰かを内に入れること」と思われがちですが、
そこには無意識のうちに、手を伸ばす方向と、その背後が生まれてしまう。

だから私たちは、「誰を入れるか」ではなく、
「どんな関係を築いているか」にこだわりたい。

一方が一方を包み込むように見えても、
その包み込んだ人もまた、別の誰かに包まれているかもしれない。
そんな風に、個人と個人の間で、包摂が編まれていく——
それが「心の広場」が目指すかたちです。

「あなたが、ここにいてくれてうれしい」

この広場では、完璧な発言でなくてもかまいません。
話がまとまっていなくても、感情が揺れていても、
そのままのあなたを迎えたいと願っています。

誰かがつまずいたとき、
「大丈夫、ここにいていいよ」と言い合えるような場でありたい。

そう願うのは、私自身がかつて、
「ここにはいられない」と感じた心の当事者だったからです。

排除の痛みを知っているからこそ、
誰もが心の当事者として、安心してつながれる場をつくりたい。

それが、私の原点であり、「心の広場」の願いです。

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